非電化当時、唐津と福岡を結ぶバイパスはまだ無くマイカーも今ほど普及しておらず、また1時間1本のダイヤだったため筑肥線の混雑ぶりは現在とは比べ物にならないものでした。今でこそ唐津行きは筑前前原を過ぎると結構座れるようになりますが、当時の盆正月など最後まで座れないなんてことはざらでした。子供の頃駄々をこねてると親切な方に席を譲ってもらったり、などは良い思い出です。ロングシートですので、そんなときは当然窓に張り付いて外の景色を眺めていました(笑。
室見川橋梁は長さ100m以上あるデッキガーター橋で、渡るときの眺めは最高にスリリングでした。コンクリート橋と違い、窓から眺めるとたまに待避所が見える以外は水面以外何も見えずまるで空中に浮いているようでした。また渡るときの「ガタンガタタタン」という独特のジョイント音の響きも印象的でした。冬には白魚漁の梁と料理を食べさせてくれる小屋が見えていましたが、今もあるのかなあ。

かつての室見川橋梁(
筑肥線の(今)昔 写真集より)
筑前前原駅の西側踏切は、昔は踏切警手さんの居るワイヤー式踏切だったと思います。遮断機ではなく手動でワイヤーを巻き上げるタイプ、いつの間にかすっかり見なくなってしまいましたね。白旗を揚げて列車通過を見守る警手さんも思い出の景色となってしまいました。
筑前深江以西の海岸沿いは、良い意味で昔とまったく変わらない車窓を見せてくれて落ち着く場所です。電車となった今でもガタピシ煩い音をたててくれます(´ヮ`; でも電化に伴いトンネルは何本か掘りなおされていて、線形が変わっている場所もいくつかあったと思います。鹿家浜崎間の2本の長いトンネルは、昔は1段下を通っており、旧線はもっと急カーブでトンネルも短かかったです。そういえば下山門~今宿の長垂旧線は複線化で見事復活しましたね、これで変だったキロ程が元に戻っているようです。
座れないときはいつも連結部辺りにいた気がします。気動車は全ての車両に運転台がありますので、使われていない運転台を覗いて速度計やら(当時は意味不明に動いていた)圧力計の赤黒2本の針を眺めていました。直線区間では80km/hくらい出てたような?また、緩急ブレーキのハンドルやら補助シートなんかもあって、ここにちょこんと座っていた記憶も残っています。
ひきつづきダイヤグラムの、ちょっとマニアックな話です。時刻表からは判りにくいですが、ダイヤグラムの形にすると列車の運用状況が見えてきます。と言っても気動車は電車と違って固定編成じゃないので、どこで併結・切り離しされているかは分かりません。また運用も筑肥線内に留まらず、同じ列車に毎日同じ編成が使われていたとも限りません。結局想像するしかないのですけど、でもそこが楽しいのかも知れませんね(´ヮ`

門ヒカラ(東唐津)に所属する車両は、S.50年初頭までキハ17系列もありましたが、晩年は通勤地区に相応しくキハ35系列が36両、ロングシート改造車であるキハ26-600が5両、残りは荷物郵便車であるキハユニ26が2両だったようです。しかし過去の筑肥線の写真からはその他の形式もちらほら見かけます。

急行平戸はキハ58系3両で構成され、これは門タケ(竹下)が使われていたようです。松浦線・佐世保線・大村線・長崎本線を経由する片道5時間以上の長旅、1日中走り回っていたんですね。ただこの編成は夜間は東唐津に居て、博多行き532D 6両で他のキハ35と一緒に博多に送り込まれて、折り返し急行平戸となって運用されていたそうです。
また日中東唐津に留置されているキハ58系の写真もよく見かけますが、これは東唐津行き531D 7両中3両、その折り返し博多行き546D増結として利用されていたキハ58系のようです。筑肥線の中で貴重な冷房搭載車です(笑。おそらく門タケ車?

また、朝の筑前前原発526D キハ58系7両には何とキロ(グリーン車)が1両繋がれていたようです。博多駅5番線に入りそのまますぐ急行由布1号となっていたようで、筑肥線朝ラッシュの波動運用だったのでしょう(日曜運休です)。グリーン料金は要らなかったのですが、他の車両と違ってガラガラだったとか(´ヮ`; グリーン車はこの1本しかなく、前日の運用で前原止まりの列車はないので回送で運んでいたのでしょうか・・・。
同様に夕方から夜にかけて博多~前原・今宿間の往復を繰り返す545D・552D・555D・558Dは夕方ラッシュのための運用系統だったことがダイヤから良く判ります。朝は怒涛のごとく東唐津から列車が出ているのに対して、夕方の博多発ラッシュ対応は結構のんびりですね。博多駅の筑肥線1,2番線ホームからは、直接竹下気動車区に行ける線路がありましたので、博多発の列車はそこから出ていたものと思われます。
その他、急行形以外では、佐世保・長崎方面からの運用で門サキ(長崎)や門ハイ(早岐)のキハ20, 40, 47,55もわずかながら入って来て、キハ35系編成の前後にくっついて運用されたりしていたようです。ただ、本来の門サキ・門ハイ車は、門ヒカラ・門タケ車とは違って貫通幌が博多側に付いており、連結は出来なかったので単独運用されていたとのことです。
(中村様情報:S50年当時の559Dのスジは博多発加布里止まりだったのですが、その後要望で東唐津まで延伸されて回送で加布里に戻っていたようです。また当初博多~前原・今宿間の往復運用はなく前述の編成が午後の間長時間博多に留置されていたため、これも要望によりラッシュ時545D~558Dの運用に就いたそうです。いかにも国鉄らしい逸話ですね(´ヮ`; この編成には門ハイのキハ20が1両最後尾に連結され、キハ35系だらけの中ボックスシートで最後まで頑張っていたとのことです。このキハ20は翌日早朝523Dで加布里から伊万里に向かい、早岐に戻るという長旅をしていたそうです)

そう言えば、キハ26-600もキハ35系列の前後にちょこんと1両だけくっついていることが多かったように思います。一般色から早々に首都圏色(タラコ)に変わってしまった35系と違い、比較的晩年まで急行色を保っていて、ホームに渡るときに見れる前面は(跨線橋なんてありませんでしたので本当に目の前です)オンボロながらかっこよく思えたものです(笑。一方キハユニは中間に繋がれてることも多かった気がします、これこそ端っこに繋いだ方が良さそうなのに・・・。使用していない時は通り抜けられたらしく、空いている車両を探して車内を渡り歩き、棚がたくさん並んでいて電球照明が照らすほの暗い独特の緑色の空間だったのを覚えています。

旧筑肥線唯一の客車列車、早朝博多行き2530レと夕方帰りの2549レ、このスハ43系は門タケ(竹下)の車籍で、昼間は竹下に居たようです。7両中1両は半荷物車のオハニ61(晩年36)で、朝唐津・伊万里方面からやって来る行商のおばさん達で賑わっていたとのことです。それにしてもラッシュ対応が旧客とは(´ヮ`; 荷物車以外は青色車体で蛍光灯の室内灯の車両でしたが、晩年たまたま夜のホームの待ち合わせ見かけた編成はぶどう色と青のちぐはぐで、ぶどう色の車両はほんのり暖かい電球の室内灯で照らされており、とても珍しかったのが印象に残っています。
牽引機はDE10で、こちらは「香」(香椎)でした。しかし何分子供の頃なのでDE10の存在を知らず、つい最近写真を見るまでDD51だと信じていました(笑。ダイヤグラムを見ると平均速度が他の気動車に比べて遅かったのが良くわかります。走る時間帯が早朝夕方で機会がありませんでしたが、一度でいいから乗ってみたかったものです。
筑肥線電化直前の時刻表(S58.3)を使って、ダイヤグラム化してみました(クリックすると大きく表示されます)。昔は方眼紙と定規を使っていたものですが、今回は
OuDiaというフリーソフトを使っています。便利!

当時の列車交換駅(閉塞扱いのある駅)のみ書き込んでいます。赤は急行、緑は快速(と言っても無人駅通過のみ)、青は客車列車です。いやー、改めて見てみるとひどいですね、今と比べると。離合10分待ちとかざらです。伊万里直通列車なんて乗ると東唐津と山本でえらい目にあいます(´ヮ`;
でも思い出してみるとそうでした。今でこそ電車は時間に正確に走るものですが、当時、特に盆正月の繁忙期なんてダイヤは終日乱れており、どうなってるのってくらい途中駅で待たされるのはザラでした。上り加布里駅や深江駅で良く待たされていたのは記憶に残っています。当然冷房もない暑い車内で、セミの声を聴きながらぼーっと車窓を眺めたり、席に座れないときはホームに出てぶらぶらして、置いていかれないかドキドキしてみたり、今となっては懐かしいです。まあ未だ前原以降は単線なんで待ち合わせがありますけど(笑。
列車交換時のダイヤを良く見てみると、ほとんどが「先に来た列車が後に出る」形になっていることが分かります。乗ってる方はイライラしますけど(笑)、タブレットの交換を行っていたことを考えると、なるほどごく自然なわけです。
それにしても朝のラッシュ時の上りとか東唐津から博多まで2時間近くかかってるんですね・・・ただ博多~姪浜間のダイヤ密度を見るとそれも納得で、駅では客扱いに荷扱い閉塞扱いでてんてこまいだったことが伺えます。高宮駅や前原駅では列車交換時はタブレットを抱えた駅員が自転車でホームを走っていたそうです。やっぱり電化・自動閉塞化は仕方のないことだったのかなあ。
ただ急行「平戸」だけは博多~東唐津間を1時間で結んでおり、これだけは複線電化された現代の快速とも良い勝負しています。さすが優等列車!松浦線を一周して5時間以上かけて長崎に向かうなんて有り得ませんけど(笑。
ところで加布里駅と鹿家駅、国鉄の旅客運賃算出表によるとこの頃から無人駅だったようです。でもダイヤを見る限りどう見ても列車交換してますし、そもそも加布里は始発列車があります(´ヮ`; 閉塞扱いのみ行う駅員がいたのでしょうか?謎です。
(中村様情報:やはり加布里駅には客扱いを行わない駅員が1名いて駐泊所もあったそうです。またSL時代にはここで給水を行っていたそうです)